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カテゴリ:ウォーキング・散策( 86 )

 

上野毛~奥澤城址跡

快晴に恵まれた昨日、上野毛から九品仏までのウォーキングへ参加してきた。

出発は、東急大井町線の上野毛駅。駅を出て早々に関東の富士見100景にも選ばれている「富士見橋」だ。橋下は東急大井町線の電車が走る。西の方向多摩川の向こうには「富士山」が見えるらしい。
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頭上では「ツピー、ツピー」とシジュウカラが求愛鳴きだ。
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まずは、五島美術館・庭園へ。庭園は多摩川が武蔵野台地を浸食して出来た「国分寺崖線」を巧みに利用して形成されてる。東急電鉄会長だった五島慶太翁が収集したという石灯籠・石塔・石仏が随所に配置されていて園内を歩いていても飽きない。
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春山荘門
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大日如来祠
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高さ2.5mはあろう雪見灯籠
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見晴台庭園からの眺め
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園内にある「稲荷丸古墳」
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国分寺崖線上をたどる「おもいはせの路」を歩く。世田谷の高級住宅が右に左に見える路である。
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次に向かったのは、これまた国分寺崖線の斜面を巧みに利用した「上野毛自然公園」だ。確かに急峻な崖の自然をそのまま残した感の自然公園だ。アップ・ダウンが実に厳しかったな。
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公園のすぐ下には、江戸時代に掘削され下流域では六郷用水にもなる「丸子川」が流れる。
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自然公園隣の稲荷坂。坂の中ほど(西側)に稲荷神社があるのである。かなりの勾配である。
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おもいはせの路に戻り、東へ。住宅街に囲まれた一画に保存されているのが「上野毛稲荷塚古墳」だ。4世紀後半のものとのことだ。長さ20m、高さ3mの前方後円墳である。
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第三京浜を潜って多摩川野毛町公園へ。ここでは快晴の下「野球の試合」に興じているチームが。しばし応援だ。
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公園の一画にあるのが5世紀前半の前方後円墳である「野毛大塚古墳」だ。全長82m、高さ10mもあり、かなりでかい。古墳であり当時の首長の御墓であるのだか、ここは頂上まで登れるようになっているのが何とも申し訳ない感であった。
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環八通りをかすめつつ、玉沢橋のほとりから「等々力渓谷」降りると、そこは別世界。渓谷の木漏れ日の中を涼しげな谷沢川の流れだ。ここは2年前「お散歩教室」の皆さんと多摩川方向から登ってきた渓谷であるが、今回は上流から下流へ歩いた。
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等々力渓谷のメイン・スポット「不動滝」だ。
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等々力不動尊をお参りし、境内のソフトクリームを買い求めて緑の渓谷を愛でながら一休み。「白桃ソフト」が美味だったな。
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矢川橋で等々力渓谷とさよならして、更に国分寺崖線の斜面の路を進むと「宇佐神社」だ。約900年前、八幡太郎義家の父 源頼義による創建と云う古刹である。
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宇佐神社の傍から環八通り方面へ登っている坂が「寮の坂」だ。かつて僧侶の学寮が建っていたので「寮の坂」と呼ばれるようになったと云うことだ。
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環八通りを少し歩くと「「玉川上水場」だ。上部は土で覆われていて近所の子供たちの絶好の遊び場になっている。
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さて、九品仏駅の踏切を超えるとすぐに「浄真寺」の参道が見えてくる。
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ここ浄真寺は江戸時代の延宝6年(1678)の開山であるが、天正18年の小田原の役までは世田谷城主である吉良氏の家臣大平佐馬氏の居城である「奥沢城」であったところである。江戸期に寺院となったため、土塁がそのまま残っており、古城の雰囲気が感じられるのが嬉しい。
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仁王門
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浄真寺は九品仏として有名で、上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)の3棟の仏堂に3体ずつの阿弥陀像を安置しているので九品仏と云われるとのことだ。
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奥沢城跡を彷彿させてくれる「土塁」と「石積」。
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ここ浄真寺で一番気に入ったのは、ここ本堂の北と南の日本庭園である。
こちらは北側の庭園。ベスト・ビューの位置に縁台が置いてあるのが実に嬉しい。
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で、こちらは南側の日本庭園だ。これまた、ベスト・ビューの縁台からの1枚。
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更に濡れ縁に出ての眺めがこれだ!!!。左手の仁王門とその右の鐘楼、更にその奥の奥澤城址土塁上の木々が鬱蒼と広がり、ここが東京23区内ですか??と考え違いしてしまいそうな空間が広がっている。何時間でも座って居たかった時空であった。
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ウオーキング開始前は全行程5.3キロとの案内だったけど、国分寺崖線を何度も上り下りしたりで総歩数は20000歩(約9キロ)は歩いた感じだ。アップダウンの多さに足裏も痛くなったな。

by Koppe3T | 2014-06-15 13:34 | ウォーキング・散策 | Comments(0)  

さくらの山へ。

昼までだったので、お昼がてら空港周辺へ。最高気温は20.7℃と実に涼しめだ。


帰路、桜は完璧に散ってしまったけど、旅客機の離発着見学にはお手軽な「さくらの山」へ。
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タイミング良く、ユナイテッド航空のボーイング747-400が着陸態勢だ。34Rのメイン滑走路へ着陸だった。やはり、通称ジャンボ!!!(B-747)がお気に入りなコッペである(笑)。
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で、こちらは成田タワーから「Clear to Take Off.」の許可を得て主滑走路(34R)へ入ろうとしているアリタリア航空のボーイング777-200型だ。
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お山からゴルフコースとヒルトン・ホテルを遠望だ。
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ここ「さくらの山」は、現在物産センター的な施設の全面建て替え工事と山以外の林部分もプロムナード的に再工事中だった。
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それでも、鯉のぼりは飾られていて、その脇には「鯉」ではない魚がはためいていたんだよね。よ~~く観察すると、それが成田名物の「うなぎ」君でした。あんまり可愛いくないね(爆)。
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by Koppe3T | 2014-05-22 17:03 | ウォーキング・散策 | Comments(2)  

吉良氏並びに井伊家ゆかりの世田谷へ

世田谷吉良氏と井伊家の所領であった世田谷線沿線の歴史散策会に参加してきた。

出発は、小田急線豪徳寺駅。
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豪徳寺駅から2両編成の実に可愛い電車が走る東急世田谷線沿いを20分ほど歩くと豪徳寺だ。

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豪徳寺は15世紀後半、世田谷城主だった吉良氏が創建。江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺になった古刹である。かの有名な桜田門の変で暗殺された井伊直弼の墓所もあることで有名である。
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本堂左の三重の塔が新緑に映えて美しい。
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豪徳寺は招き猫伝説の寺でもある、招福堂には寄進された招き猫が数千体。壮観である。
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彦根藩2代藩主井伊直孝が領内見回り時突然雷雨に合い、猫の招きにより境内に避難し落雷を免れることが出来たことから井伊家の菩提寺になったとの伝説である。

寺域の奥まった広大な一画が井伊家の墓所で、歴代藩主や奥方の墓石が並んでいる。その奥まった所に13台藩主直弼の墓標が鎮座であった。
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世田谷線の宮の坂駅のすぐ北に鎮座するのが、「世田谷八幡宮」。
源義家が11世紀後半の「後三年の役」の勝利を祝い創建したとのことである。
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境内にある奉納相撲の土俵である。ここの奉納相撲は江戸3大大相撲のひとつと云われているとのことである。
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土俵傍の池に居た鴨君。寄っても逃げない人懐っこい鴨君たちだった。「グァ、グァ~。」元気だったな。
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更に数分南下すると「勝光院」だ。建武2年(1335)吉良氏による創建であり、江戸期には徳川家康から寺領30石を与えられたという。世田谷吉良氏の墓所でもある。
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勝光院書院。天保4年この地に移された江戸後期の数奇屋造り書院とのことだ。
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勝光院梵鐘。元禄11年(1698)作の世田谷区で2番目に古い梵鐘である。太平洋戦争時供出されたが潰しを免れ昭和52年に返還されたものだと云う。
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吉良氏墓所である。
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さて、今回のメイン・イベント「世田谷城址」である。今は「世田谷城址公園」として整備されているが、南北朝時代、足利氏の流れをくむ吉良氏居城とした平山城で、中世の面影を残す空堀や土塁が美しい。
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この先立ち入り禁止の土塁。タモリ倶楽部では「許可を得て」立ち入れていたんだよな。
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次に向かったのは、世田谷区役所北東にある「松陰神社」である。安政の大獄で刑死した吉田松陰を祀る神社で幕末に子弟の高杉晋作、伊藤博文らにより千住小塚原回向院よりこちらに改葬され、明治になって墓の傍に神社が創建されている。
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吉田松陰先生および安政の大獄で処刑された志士の墓所である。
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神社右奥には、萩の「松下村塾」を模して建てられていた。やはり萩の村塾の方が味わいがいいかな。
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明治41年に、毛利元昭公はじめ伊藤博文、山形有朋、井上馨、桂太郎、乃木希典らにより奉献されたと云う石灯籠群。
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松陰神社を後に松陰神社前駅に向かう途中にあった「松下村塾学び館」。2013年10月オープンと云う。内部は松陰先生にまつわる写真や資料で盛り沢山だ。1年間無料学費の第6期生募集中のことだった。もう少々若ければエントリーしたいくらいである。
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また、駅の近くのニコライ精養堂(今はパン屋さんだが、創業80年の和菓子屋さん)。松陰饅頭をお買い上げ~~。
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世田谷通り沿いの「大吉寺」。滋賀県の浅井長政公にまつわる大吉寺の大石が鎮座している。
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通りを少し入ると、「天狗湯」YOUが見えた。今時珍しい銭湯である。
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さて、こちらは今回の最終ポイント「世田谷代官屋敷」である。吉良氏に代わりこの地に入ってきた井伊家の世田谷領20ケ村の代官だった大場家の屋敷だったところである。
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門の前は「大山道」が往還している。

主屋。実に大きい。元文2年(1737)から宝暦3年(1753)の工事で完成したもので、重要文化財である。内部も黒光りしており、歴史を感じさせてくれる。
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敷地内の「白洲」。この石畳には座れない座れない。「代官様、お許しを~~~。」であるな。
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お隣にある世田谷郷土資料館内へ。
玉川上水木樋の展示が目を引いた。多摩川の水を羽村から江戸市中まで引いたという。この木樋は四谷で発掘されたものだと云う。
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野毛大塚古墳の石棺。古墳時代中期5世紀ごろのものとのことだ。
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懐かしかったのは、このテレビとラジオである(笑)。
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天正年間に北条市が認めて始まった「楽市」が始まりと云う「ボロ市」のジオラマがリアルで見とれたな。今では年に一回の開催であるが、昭和の時代まで毎月2階開かれていたというこの楽市、凄い歴史のある市である。
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by Koppe3T | 2014-05-18 11:13 | ウォーキング・散策 | Comments(0)  

石神井公園お散歩~~~

昨日の「みどりの日」は、「ここは東京でない!!」(笑)と評判の「石神井公園」のお散歩に参加してきた。「みどりの日」にふさわしい若葉青葉が美しく映える天候にも恵まれ、確かに「ここが東京23区か!!」と思いつつ堪能してきた。

まずは、三宝寺池下流に造られた「石神井池」。連休中と云うこともあり、池には多くのボートが。
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更に、園内の木々は若葉が眩しい。
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三宝寺池に架かる太鼓橋も優雅である。
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三宝寺池沼沢植物群落である。武蔵野3大遊水地の一つであり、東京では珍しい沼沢植物が育成しており、昭和10年に国の天然記念物に指定されていると云う。手前の紫の花は「カキツバタ」である。
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中の島際に居たコサギ君。獲物が足元に来るのをジッと我慢の子であった。
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「三宝寺池」である。ここが東京ですか~~と云う感の武蔵野のイメージが色濃い。
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岸辺では、亀さんも甲羅干しだ。
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三宝寺池の水上にある東屋からの眺め。この眺めは贅沢過ぎである。この風景独り占めで文庫本でもあれば、何時間でも居座れそうだ。
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平安時代から室町中期までこの地域の豪族であった豊島氏の居城でであった「石神井城」が文明9年(1477)の落城時に城主豊島奏経が愛馬でこの池に沈んだとの伝えと二女の照姫が三宝寺池に身を投げたと云う伝説があり「殿塚」、「姫塚」として弔ってある。
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現在でも照姫祭りが開催され、毎年一般から「照姫」の募集があるとのが凄い。
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三宝寺池の「厳島神社」遠望。水源保護として石神井村の村民の厚い信仰を受けていた神社である。
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文明9年に落城するまで豊島氏の居城であった「石神井城跡」である。中世のお城の面影を如実に残していて実に興味深い。保護の為、内郭へは入れないが、土塁・空堀がいかにも中世の館であったお城をイマジネーションさせてくれている。
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一部、当時の石垣も残っているのが嬉しい。
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ここで、ランチ・タイム~~。ビールが美味しかったな。これは、お隣にシートを敷いて休憩中だった方の連れ猫ちゃん。実に大人しくお利巧さんな猫ちゃんで、しっかり自分のサンシェード内に入って周りにご愛嬌だった。
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練馬区立ふるさと文化館の展示物から、「昭和の風景」と練馬といえば「練馬大根」の漬物樽。
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ふるさと文化館そばの練馬区指定文化財で、明治20年に建てられたと云う民家である「旧内田家住宅」。平成19年に屋外展示施設としてへ移築されたもの。
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この旧内田家住宅では、平安時代の衣装体験が催されており、こちらは平安時代の姫に変身の参加者である(お姫さま、お似合いでしたよ~~)。私も小者役で野良着を着させて貰い、衣装体験4名様での記念撮影は大盛り上がりであった。
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顔が出てしまうので衣装体験した皆様の紹介が出来ないのが残念である。

実は、練馬は「練馬大根」よりも甘藍(キャベツ)が特産品ということを今回知った。練馬区
の畑の4割がキャベツ畑だと云う。この通り住宅地のすぐそばまでキャベツ畑であった。しかも、甘藍(キャベツ)の碑まで建立されているのだから半端ないことである。
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曹洞宗の寺院である豊島山道場寺。豊島氏の菩提寺で、文中元年(1372)の建立とのことだ。境内は紅葉の木が多く、紅葉の季節に訪れたら「ここは京都ですか?」の風情であった。
境内の紅葉の向こうの三重の塔も優美である。
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真言宗智山派の寺院である「三宝寺」である。豊島氏の菩提を弔うために石神井城落城後に大田道灌によりこの地に移転されたという。
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このお寺さんも紅葉が本殿まで迫っていて秋に訪ねたら、また一味違った景観を楽しめそうである。
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この三宝寺山門は、徳川3代将軍家光が狩猟の際に当寺に立ち寄り休憩したので「御成門」と称され、江戸時代は通常閉じられ庶民の通行は禁じられていたという。その後の2度の大火でも難を免れ当時の古建築を今に伝える山門である。
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こちらは、応永年間(1394~1428)に豊島氏が武蔵一の宮より分霊したと云う「氷川神社」で、石神井郷の総鎮守である。古刹である。
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最後に再度石神井公園の池を眺めながら帰路へ。水辺には、真っ黒い体の「バン」や」「ゴイサギ」がお見送りだった(笑)。写真はゴイサギである。
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全行程、約11キロ(15000歩)。ここが東京23区とは思えない地域のワイワイガヤガヤのお散歩は実に楽しかったな。案内頂いたリーダーはじめご一緒いただいた皆様に感謝である。

by Koppe3T | 2014-05-05 15:22 | ウォーキング・散策 | Comments(4)  

上野夜桜観賞の夕べ

昨夜は「上野公園の夜桜を愛でる会」に参加だった。

意に反して、夕方5時頃に豪快な雷雨が上野を襲ってきて、今夜は夜桜見物出来るのかな?と不安が走るものの、参加者全員が集合した頃には雷雨も上がり、青空も見え隠れ。皆さんの日頃の行いが良いらしい。

少し早く上野に着いたので、集合前に上野の山を散策。
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突然の雷雨で、場所取りのブルーシートもビショビショ。
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それでも、桜通りの大通りは多くの人が散策だ。少し葉っぱも出始めてはきているものの、今日まで散らずに頑張ってくれた桜に感謝である。
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清水観音堂の枝垂れ桜が美しい。
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さて、全員集合のあと夜桜観賞へゴー。
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不忍の池の弁天堂では、屋台で焼き鳥と生ビールで小腹を満たしつつの夜桜見物がウキウキ感をアップしてくれる。
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清水観音堂に再現された歌川広重の「名所江戸百景」に描かれたという「月の松」から望む不忍池の弁天堂が美しい。
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その絵と云うのが、これだ。
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この観音堂周りの桜が、これまた美しい。この桜のライトアップには、多くのYou達も記念撮影だったな。
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西の空の三日月と桜。
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またライトアップされた枝垂れ桜と観音堂の朱が異様なコントラストだ。
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最後に、上野公園と云えば、「西郷さん」!!!(笑)
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その後、公園を下りて御徒町方面へ。山を下りたら下界の照明の明るさに驚きだ。3年前の大震災の時は照明もかなり落としていたけど、今や不要なほどに光り輝くこの街って、いったい何者なんだろうと感じた。

メインの居酒屋では、実に楽しい飲み放題の云いたい放題会で、あっと云う間にお開きに。
楽しい春の夜桜観賞会だったな。
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by Koppe3T | 2014-04-05 09:40 | ウォーキング・散策 | Comments(6)  

彰義隊の足跡を訪ねて

慶応4年(1868)5月15日の上野の山戦争の足跡を訪ねる歴史散策会に参加した時の記録である。

慶応4年1月の鳥羽伏見戦争に負け、江戸に逃げ帰った最後の将軍徳川慶喜は朝敵となってしまう。
慶喜は上野の寛永寺に謹慎していたが、旧幕臣の中には「朝敵」という冤罪を雪ぐために集まり、慶喜の雪冤と江戸市中取り締まりを目的に結成されたのが「彰義隊」であった。「大義を彰かにする」とうので、「彰義隊」となったという。

散策のスタートは、浅草。まずは、「浅草寺」詣でである。
浅草寺は、推古天皇36年(628)に漁師の兄弟が隅田川で観音像を引き上げたのが縁起と云うから、実に古刹である。浅草観音と云われるのも引き上げたのが「観音像」であったからである。
まずは、雷門。ここはYou達が多く、世界の観光地を体感させてくれていたな。
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仲見世通りも、まともに歩けない大混雑。
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本堂に参拝し、五重塔に見惚れて1枚。
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さて、今回の本題「彰義隊」である。彰義隊の面々は、当初「尊王恭順有志会」としていたが浅草のここ東本願寺で組織名を「彰義隊」と命名したという。彰義隊発足の地である。
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頭取に、一橋家家臣 渋沢成一郎、副頭取に幕臣天野八郎だったとのことだ。この渋沢成一郎は、深谷出身の明治の大実業家である渋差沢栄一の従兄である。
この東本願寺は天正19年(1591)神田に創建された古刹であるが、明暦の大火後ここ浅草に移転されている。

彰義隊は、ここ東本願寺を屯所に江戸地中取り締まりに尽力したというが、江戸総攻撃が西郷・勝の会談などを経て中止になり、上野寛永寺に謹慎していた慶喜が水戸へ去る。そこで、慶喜警護の名目もなくなり、武断派の天野らが上野の山に籠るようになる。この頃、渋沢は武断派の天野等とは袂を分けていたということだ。

浅草通りを一路上野へ向かう道すがら立ち寄ったのは、田原町駅近くの「本法寺」である。お寺の塀に多くの落語家の名前が赤字で描かれている。本法寺は、天正19年(1591)江戸城紅葉山に開かれた日蓮宗の寺院であるが、こちらも明暦の大火後、この地に移転されている。
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境内には「はなし塚」があった。日本が太平洋戦争に傾いていくころ、落語が時勢にそぐわないとして自主的に上演を自粛した名作を落語家を慰霊するべく建てられたと云う。
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さらに、こちらは「金龍寺 」。荷田春満(かたのあずままろ)のお墓があるとのことだ。荷田は、元禄期の国学者で、赤穂義士の大石内蔵助らをサポートしたと云う。
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浅草通りを西に進むと、稲荷駅近くの左手に「下谷神社」(したや)が見えてきた。
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天平2年(730)上の忍ケ丘に創建された古社である。寛永4年、寛永寺創建時山下に移転し延宝8年(1680)この地付近に再移転したという。この下谷稲荷神社は、江戸期寄席興行で有名だったという。寄席発祥の碑も建立されていた。
明治の俳諧「正岡子規」の一句も残っていた。「寄席はねて 上野の鐘の夜長哉」
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さて、上野駅を右見て更に京成上野駅も右に見て通り過ぎ、上野公園正面入り口に到着だ。この辺りが彰義隊と新政府軍との間で激戦が行われた「黒門」前跡地である。
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<上野の山黒門跡付近から御徒町方面を望む>

慶喜不在の江戸市中で彰義隊士らの新政府兵士への殺傷事件も発生し、ついに慶応4年5月15日の上野の戦争勃発となったのである。この絵の黒門は戦後荒川区の円通寺へ移転されていて、見ることは出来ないのは残念である。
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この黒門跡後ろの階段を登った辺りが「山王台」である。有名な「西郷隆盛像」がある所である。
彰義隊は、ここに四斤砲を据えて御徒町方面から攻め寄る新政府軍に撃ち下ろしたという。
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西郷隆盛像のすぐ後ろに彰義隊士の墓があった。上野戦争はたったの1日で新政府軍の勝利に終わり、彰義隊士で生き残った者はちりじりに逃げたとことであるが、戦争の3日後遺体は266体もあったという。円通寺の僧と民間人の三河屋らが火葬に処したという。
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墓には、「戦死の墓」と刻まれている。明治14年に山岡鉄舟により刻まれた墓碑である。
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さらに彰義隊の痕跡を探し、上野公園の奥へ。
左手に見えてくるのが「東照宮」である。東照宮の手前には寛永6年の東照宮創建時いち早く寄進されという通称「お化け灯籠」だ。
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織田信長の武将佐久間盛次の四男 佐久間大膳勝之の寄進だ。高さ6.06メートル!!!確かに、お化けである。

上野東照宮山門である。参道に並ぶ灯籠が見事であった。
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上野東照宮本殿と唐門。日本には一つしかな重文の金箔の唐門である。
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更に上野公園を奥へ。今は公立博物館の手前に噴水広場が広がっているが、この辺りは、上野戦争で焼失する前は、寛永寺の根本中堂があったとの案内掲示があった。
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国立博物館手前を右に進み、輪王寺大師堂には、旧寛永寺の山門が移築され残されていた。
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接近して門を見ると、上野戦争当時の銃弾の跡があちこちに残されていた。
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ここ輪王寺境内は、梅が満開で実にいい香りが漂っていた。青空に映えた満開の白梅が美しかったな。
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境内には、なぜか谷中に住んでいたという幸田露伴宅の門が移築されていた。幸田露伴の代表作「五重塔」は、現寛永寺の根本中堂を手掛けた大工が主人公と云う謂れがあるとのことだ。
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彰義隊直接関連はないが、こちらは鳥取藩邸の表門だ。丸の内にあったものであるが、明治後高輪で皇族の表門として使われてのち、昭和29年この地に移築された重文である。
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更に進むと、こりゃ何だ~?
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京成電鉄の地下駅だった「博物館動物園駅」の駅舎であった。昭和8年開業、昭和54年廃駅。平成9年には入り口も閉鎖され現在に至っているとのことである。

上野公園を不忍の池方面へ。不忍の池から弁天堂を望む。
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新政府軍がアームストロング砲と云う当時では破壊力がすざましかった大砲を据えて攻撃したという、旧富山藩邸跡地へ。今は、東大附属病院になっているが、その東大池之端門を入り、坂道の中腹あたりが富山藩邸だったという。目の前には高層マンションが立ち並び、不忍の池はもちろん上野の山も見通せない。この写真の下り坂の向こうの白い高層マンションの方向が上野の山黒門があった方角である。当時は、ここからの新政府軍のアームストロング砲による攻撃が勝敗を一気に決定したという。
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東大池之端門の傍に、「弁慶鏡ケ井戸」があった。ポンプを漕ぐと勢いよく水が出てきた。この井戸は、源義経主従が奥州へ向かう時に、井戸水で喉を潤したとの伝承である。
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ここからは、不忍通り一気に歩き千駄木の団子坂下へ。右に曲がると「三崎坂(さんさきさか)」である。この坂は、上野戦争では長州藩・大村藩兵らの新政府軍は攻め込んだ坂で豪雨のなかの激戦だったという。「三崎(さんさき)」とは、駒込・田畑・谷中の3つの高台があるので三崎と云うとのことだ。
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三崎坂の中腹左手のお寺さんには、勝海舟と協力して「江戸無血開城」に尽力した「山岡鉄舟」のお墓があった。
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上野桜木から現在の寛永寺へ。ここの根本中堂は、本堂が上野戦争で焼失してしまったので、明治9年 川越の喜多院の本堂を移築したというものであった。
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この根本中堂も境内には、「上野戦争記」碑がひときわ大きく建っていた。碑には彰義隊の結成から上野戦争までの活動が刻まれていた。裏面には最初に檄文を発行し有志を集めた「本田晋」の名前も冗談に刻まれていたな。明治44年建立の碑であった。
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最後に見学できたのが、現寛永寺墓地の一画に残っている重文の「徳川家綱霊廟勅額門」である。
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鶯谷に到着して、今回の「彰義隊の足跡を訪ねる」散策はお開きになった。総歩数23000歩、約15キロの長丁場だった。途中リタイアーせずに歩き通せて良かったな。
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by Koppe3T | 2014-03-16 11:45 | ウォーキング・散策 | Comments(2)  

赤穂浪士終焉の地めぐり

赤穂浪士終焉の地巡りの歴史散策会に参加した時の記録である。


元禄15年(1701年)12月15日の吉良上野介の首を挙げた赤穂浪士の泉岳寺へルート後半を訪ねるコースであった。 浪士たちは、吉良を打ち取ったあと、永代橋を渡り旧赤穂藩上屋敷(現中央区の聖路加看護大学)で快挙を報じたあと、築地本願寺をかすめて東海道へ向かったと記録されている。
今回は、東海道に出てからのルートを訪ねるとのことだ。

まずは、赤穂浪士には直接関連はないが、「浜離宮」へ。
江戸初期は甲府藩の下屋敷として使っていた所であるが、6代将軍家宣の時に将軍の別邸になり「浜御殿」と称さてれていた将軍の「鷹狩の場」だったところである。

ブラタモリなど色々な番組で紹介されていたけど、今回初めて訪れることができた。
まずは、潮入りの池と中島の御茶屋。
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こちらは、将軍の御成りのとき以外は使われなかったという、「将軍お上がり場」だ。
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将軍の鷹狩のときに「鴨達を呼び寄せておく小堀」に鴨が何匹いるのかを確認するための「小覗」。
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いずれにしても、鷹狩も獲物を事前に集めておいて鷹を放鳥したとのことだから、今で云うところの「やらせ」ぽいものだったんだな(笑)。

園内には、梅も開花していて「春遠からじ」の風情満点だった。
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この外堀の石垣は、素晴らしい。
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さて、赤穂浪士の引き上げルート再開だ。旧東海道(現第一京浜)に出た浪士たちは、仙台藩上屋敷で、粥のもてなしを受けたと云う。粥は、仙台名産の「ほしいい」だったとのことである。現在は、日本テレビがでで~~ん建っているところである。
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<この日テレ、高くて見上げると首も痛くなる(笑))。
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日テレの敷地内にもこんな案内板があった。
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さらに東海道を下ると右手に、「芝大神宮」が見えてきた。寛弘2年(1005年)にこの地へ勧請されたと云う古刹であるが、当日はお日柄が良いようで、4組の挙式がご案内されていた。
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この一枚の写真は、新郎新婦をお迎えする宮の巫女さんたちであった。
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更に進むと、「金杉橋」だ。
ここで、同志の磯貝十郎左衛門にここから数十メートル上流にある将監橋近くに住む母親と永別するよう勧めたが、磯貝氏は謝絶したと云われている。
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旧東海道を更に下ると、赤穂浪士とは直接慣例はないが、JR田町駅の手前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」の碑があった。ここは、薩摩藩抱屋敷跡であり、慶応4年(1868年)江戸城総攻撃予定前日に西郷と勝が会談を行った場所であった。
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現在は、三菱自動車本社ビルとショウルームになっている。
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更に下って、「札の辻」である。宝永7年(1710年)までは東海道からの江戸への正面入口で、高札場があった場所である。交差点の名前としても「札の辻」が残っているのが嬉しい。ここからは、桜田通りの向こうに「東京タワー」が遠望できる。
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更に進むと、右手に御田八幡神社だ。ここで、討ち入り前に翻意して浪士グループと別れた「高田郡兵衛」が引上げ一行を出迎えたが、浪士たちは無視して通り過ぎたと云う。
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さらに進むと、左手に「高輪大木戸」の遺構が残っている。当初は、札の辻にあったのだが、享保9年(1724年)にここに移転されたと云う。
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さらに進むと泉岳寺への坂道が見えてくる。登り坂の右手に創業100年と云う「やぶそば」のお店だ。実にいい風情である。
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さあて、いよいよ「泉岳寺」である。
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赤穂義士墓所では、お線香を一束買い求めて、義士の面々に線香を手向けさせてもらった。
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さて、義士たちが浅野内匠頭の墓前に吉良の首級を備えた後の話であるが、浪士たちは熊本藩、松山藩、長府藩、岡崎藩の4藩に振り分けられて預けられている。

泉岳寺の右手の小道を登り二本榎通り沿いにあった熊本藩白金下屋敷に預けられたのは大石内蔵助はじめ堀部弥兵衛、磯貝十郎左衛門、原惣右衛門など17名である。二本榎通りに面して現在建っている高輪一丁目アパートの植え込みに「大石良雄等自刃ノ跡」の碑があった。ここが旧熊本藩下屋敷だったのである。
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更に他の浪士の預け先である、岡崎藩水野家中屋敷へ向けて、二本榎通りを下る。
右手に伊皿子坂(いさらご坂)が見えてきた。明国人伊皿子(いんべいず)が住んでいたと伝えられる。
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更に左手には、「幽霊坂」。坂の両側に寺院が並びものさびしい坂であったためとか。
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二本榎通りは自然と下り坂になり、「聖坂」との案内だが、ここにタモリ倶楽部でも紹介された「ホームセンターの資材だけでビルを造る男」と云う建築途上の建物があった。屋上でご本人が作業中だったな。
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最後は、水野家岡崎藩中屋敷である。赤穂浪士の内の間十次郎、奥田貞右衛門、茅野和助など9人が預けられた場所である。現在は都営三田線三田駅の西に広がる居酒屋が建ち並ぶ一画になっていた。
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最後に安政年間の江戸切絵図である。
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by Koppe3T | 2014-02-23 16:14 | ウォーキング・散策 | Comments(2)  

「龍馬の江戸留学を訪ねて」 <追記あり>

坂本龍馬が19歳から22歳の頃、剣術修行に江戸遊学した足跡を訪ねる会へ参加してきた。

江戸と云えば、やはり「日本橋」がスタートだった。日本橋南詰めの幕藩時代は「高札場」があった地点がスタートだ。
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今の日本橋は明治44年に架けられたものであるが、日本橋南詰めのたもとにある、元禄年間創業の漆器店「黒江屋」には、万治元年(1658)の擬宝珠がショウウインドウに飾られているとのことであるが、今回は店がオープンしておらず、シャッターの浮世絵を眺めるのみ。
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日本橋川を右手に見ながら進むと「一石橋」のたもとである
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。ここには安政年間に建てられた「一石橋迷子しらせ石標」が佇む。江戸後期には、繁華街では迷子が多く、このような石標にお知らせが張り出されたということだ。当時は湯島天神や両国橋にもあったようだが、今はここにのみ残されている貴重なもにものとのことだ。

更に日本橋川の上流に架けられているのが、この「常盤橋」である。旧江戸城外堀に架けられていたもので、天正18年(1590)には土橋だったと云う。この石橋は、明治9年に架けられたものとのことだ。
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常盤橋を渡り切った先のこのJFE商事ビルから先の13000坪ほどが「福井藩上屋敷」であった。
龍馬が近藤長次郎らと当時の前藩主である松平春嶽」と尋ね、海防策などを話したという屋敷である。安政年間の江戸切絵図では「松平越前」と記されているエリアである。
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御幸通りを江戸幕府の貨幣鋳造所(現日本銀行)を左に見ながら江戸桜通りを直進だ。昭和通りの先の椙森神社の1ブロック手前のこの辺りに「千葉定吉道場」があったエリアである。龍馬が最初に江戸へ出た時に入門した北辰一刀流の道場である。ここの娘佐那との恋愛話は若き龍馬の青春時代の一コマである。
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次は、人形町の交差点を左に見ながら進むと、「日本橋小学校・日本橋図書館」の洒落た施設が見えてきた。ここが、龍馬の「薩長同盟」の対談の一人で明治後明治6年に鹿児島へ下野すまで住んだ「西郷隆盛」の屋敷があったところだ。
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西郷隆盛屋敷のすぐ近くに「春琴抄」・「細雪」で有名な作家「谷崎潤一郎」の出生地があった。
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ここのビルには「谷崎」という落ち着いた雰囲気のレストランがあり、この看板は谷崎潤一郎の奥様の筆によるものと云うことだ。
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日本橋川方面に進むと、日本橋川に架かる「鎧橋」である。江戸期は橋は架かっておらず、「鎧の渡し」だったところであり、この橋は、明治6年のことという。西郷さんも草履履きで渡っていたであろう橋で、西郷隆盛と龍馬の妻お龍さんと会いお互いの身を案じたととの談話が残されている橋である。
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橋を渡ると、右手に「東京証券取引所」を右手に平成通りを進むと、右手に中央区立阪本小学校が見えてくる。明治4年開校の第一番官立小学校で、旧細川藩の下屋敷だったところである。谷崎潤一郎もここの卒業とのことであった。
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<以下、後刻に追記。>

更に進み八丁堀2の交差点に1500坪の「桑名藩上屋敷」があったエリアになる。最後の藩主は、京都守護職の松平容保の実弟であり、戊辰戦争では兄容保とともに新政府と戦った一人である。今は面影もないビルがあるのみである。
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桜橋交差点を直進して新富橋の南にある復興稲荷社の一帯が江戸三大道場の一つであった「桃井道場」の跡地と云うことだ。
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更に直進し、新富町駅の先に見えてきたのが古めかしく且つどうた!!と民を威圧してい感のある「中央区役所」で、この区役所の辺り一帯は「土佐藩中屋敷」だった所で、龍馬の江戸遊学時の宿舎であった。
ここで、土佐勤皇等を設立した武市半平太と交流したとのことだ。
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更に祝橋、万年橋を越えて行った先にあったのが、龍馬も門下生であったかの「佐久間象山塾」である。
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幕末有数の兵学者で松代藩士のこの砲術塾には、勝海舟はじめ、長岡藩家老の河井継之助、八重の桜でも詳しく描かれていた会津藩士山本覚馬、長州藩士で倒幕の原動力になった松下村塾塾長の吉田松陰、肥後藩士宮部鼎蔵らが門人に名を連ねていたというのが凄い。

最後に東京駅南口近くの鍛冶橋通り沿いの「千葉定吉道場」跡である。龍馬は2度目の出府の時はこちらの道場へ通ったようである。
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以上が、龍馬の江戸留学足跡」である。
このウオーキングの途中で見つけたのが、歌舞伎座の裏手にあったフロール ド カフェ「樹の花」である。入り口の案内板によると、1979年8月4日 ジョン・レノンとヨーコが立ち寄りコーヒーとティーで静かに語り合ったというカフェである。
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by Koppe3T | 2014-01-26 08:56 | ウォーキング・散策 | Comments(2)  

日本橋・人形町・浜町界隈

昨日は、恒例の「お散歩教室」に参加だった。しかも、今月は江戸情緒豊かな日本橋から人形町周辺。期待も高い。

地下鉄「日本橋駅」に総勢集合で、いざ「日本橋」へ。
ご存じ、江戸幕府開闢早々の慶長8年(1603年)に架けられて、日本の道路網の起点となっている橋である。南詰の高札場下よりの現在の日本橋である。橋の真上の首都高速が実に嫌な感じである。早く地下に潜らないかなぁ。
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この石橋は、明治44年建造の20代目と云うことだ。

橋の中央には、「道路元票地点」の表示が誇らかだ。昭和47年このプレートに変更された時のもので、時の総理大臣佐藤栄作の筆と云うことである。
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日本橋南詰の「高札場」跡。現在は、日本橋の由来や江戸期の橋の模様がレリーフで紹介されていた。
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北詰には「里程標」も埋め込まれ、日本の道路起点であることを再認識されてくれている。
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更に、北詰の下流一帯が魚河岸だったことの記念碑が残っている。大正時代に築地へ移転され今や面影も
ないが、さぞ活況を呈した一帯だたのだろうな。
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さて、いよいよ室町へ。江戸の頃は「越後屋」はじめ大店が立ち並ぶ超繁華街だった通りである。
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延宝元年創業の「越後屋」。現在の日本橋三越本店である。関東大震災で修復工事されってはいるが、大正3年以来の東京都歴史的建造物である。
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こちらは、三井本館。ドラマ半沢直樹の舞台として一躍有名に(笑)。明治35年竣工なれど、関東大震災で被災し、昭和4年に建て替えられたものとのことだ。外周のオリエント調の円柱が荘厳である。
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こちらは、日本銀行本店。明治29年竣工で、現役使用されているのが凄い。上から見ると「円」の字になっていると聞くけど、地上からは想像するのみ。
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日本銀行の前にある日本銀行金融研究所(??金融の研究って、超難しそう(笑))内の「貨幣博物館」で矢じりや穀物が通過だった時代から和同開珎、江戸時代の大判・小判、そして外国の貨幣などの学習だ。こちらが、ヤップ島で使われていたと云う石貨(フェイ)だ。重量100キロって(汗)。どうやって運びますか??
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室町通りを横切って江戸時代「伝馬町牢屋敷」があった「十思公園(じっしこうえん)」へ。江戸末期、安政の大獄で下田でアメリカ船へ乗りこんで密航しようとして捕えられた吉田松陰が処刑されたの「吉田松陰終焉の地」として有名である。
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同じ十思公園内にある、「石町(こくちょう時の鐘」である。宝永8年(1711年)鋳造の鐘とのことである。今の室町あたりにあった鐘で、昭和5年にこちらへ移築されたとのことだ。説明書きによると「鐘の聞こえる町から鐘楼銭」を集めて維持管理されていたと云うのが面白い。
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伝馬町牢屋敷のジオラマがお隣の旧小学校。今はデイ・サービス施設の館内に展示されています。
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十思公園に隣接した場所にある、見延別院。旧伝馬町牢屋敷の跡地に明治になってから開山された日蓮宗寺院である。
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大安楽寺。小伝馬町にある高野山真言宗寺院で、境内には伝馬町牢屋敷の石垣などが残されている。
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人形町へ帆ではなく歩を進めると、まずは「大観音寺」脇の小路との対照が面白い。
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さあて、人形町に入ったので、買い食いタイム~~~(笑)「人形焼」、甘酒」、「コロッケ」。いずれも、美味しいかったな。
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こちらは、コロッケを買い求めた「今半」。惣菜を求める人で大賑わい。
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人形製作や、修理のお店が軒を並べていたという「人形町」。タイムリーに通りのからくり時計が動き出してました。屋根が上昇し、中から「火消しの纒」の人形が踊り出しました。
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甘酒横丁を後にして、「浜町公園」へ。隅田川から「新大橋」をお月様のコラボに、皆で写真撮影会(笑)。
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最後に、薬研堀不動院と云う真言宗の川崎大師東京別院にお参りしてお散歩終了。あたりはとっぷり日暮れて、「打ち上げ」にはいい雰囲気の時間帯だ。
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打ち上げでは、「男は・・・。」とか、「男を殺して・・」とか、楽しいひと時であった。
主催者さま、ご同行の皆様、今回もありがとうございました。

by Koppe3T | 2013-12-15 11:20 | ウォーキング・散策 | Comments(4)  

「中央フリーウェイ~♪、左はビール工場~♪」

今日は、「中央フリーウェイ~♪、左はビール工場~♪」とユーミンの歌にも登場する「サントリー武蔵野工場へ。

まずは、集合場所の京王線・JR南部線 分倍河原の南口ロータリーへ。
そこは、かの有名な新田義貞と北条の大合戦が行われた「分倍河原古戦場」だったのである。

新田義貞公の勇ましい像がお出迎え。
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そこから専用バスで約5分。サントリー武蔵野工場に到着だ。
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<工場見学エントランスのサントリー・プレミアムのロゴがお出迎え>

プレミアムモルツの原料や製造工程を20分ほどの映像で学習してから工場へ。

まずは、仕込釜だ。金属の照りも美しい釜が何基も動いていた。
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こちらは、発酵後のビールを熟成する為の貯酒タンク。実にクリーンなのだ。
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で、熟成を終えたビールから酵母を取り除く「ろ過」器だ。熱も加えないろ過なので「生ビール」が完成するとのことだ。
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で、最後の缶・樽詰行程。1分間に2000~3000本流れるとのことだ。
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最後にお待ちかね「試飲」。あのサントリー・モルツが3杯も飲めちゃうんだよね。
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黒ビールも飲めるのであるが、私は2杯目も通常のプレミアムモルツを頂きました。香りも素晴らしいし冷やし具合も完璧!!、美味しかったな。
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3杯めは、缶ビールをグラスに泡3、ビール7の割合に注ぐ方法を伝授いただき、これまた美味しく頂きました。
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ご馳走様でした。

参加者の皆さん、全員 大・満・足の「中央フリーウェイ~♪、左はビール工場~♪」のビール・ツアーでした。
予約も含め企画のリカさんに感謝である。参加の皆様、お疲れ様でした。
分倍河原のピッツアも完璧美味しかったし、「恐るべし分倍河原」であった。

by Koppe3T | 2013-09-23 18:28 | ウォーキング・散策 | Comments(4)